高知高専50周年誌 寄稿文

        E3 電気工学科 卒業
        ()光テック 社長 弘内 喜代志

高知高専創立50周年 おめでとうございます。

今私は
64才になりました。

孫も3人になり一昔前なら楽隠居と決め込み残された人生を楽しんでいるはずです。

しかしながら親父が創業した会社を二代目社長として継いで三十数年になります。

いまだに現役の社長として「あぁでもない」「こうでもない」と言いながら現役の社長を続けています。

同級生はほとんど会社を退職して、旅行にカラオケにと同級生間のメールマガジンを通じて楽しんで
いる様子が伝わってきます。時々帰郷する同級生を囲んで同窓会をするのですがすぐに「あいつや」
とわかる同級生と「おまん 誰?」と全然わからない同級生がいたり、時の流れを感じさせます。
しかしひとたび話し出すとすぐに四十数年前の物部の学び舎で一緒に過ごした時を思い出して
精神状態は「あの時のままやなぁ・・・」とセピア色の青春カンバックということで十代のころ
に帰ります。

さて、私は昭和
394月に高知高専電気工学科に3期生として入学いたしました。

丁度この年は東京オリンピックが開催され日本中が希望に満ちた雰囲気だったようながします。

当時は、現在の物部に確か電気棟と機械棟と確か2つの建物しかなかったように記憶しています。
この校舎で勉学をスタートしたのは我々3期生からではなかったか?それまでは高知学園を借りて
先輩方は勉強していたと聞いています。教える先生方も若かった。


野村先生、益弘先生、川上先生、矢野先生などは1期生と歳もそんなに変わりないように見えて
何か兄貴が弟に教えているように思いました。そんな環境の中で我々は「エンジニアになって
日本の国を支えて行くんだ!」という気概があり創立のあの熱気の中で我々は学生生活を送りました。


同級生の中にも到底私の能力では
及ばないようなずば抜けた才能を持っている者がいて驚いたものでした。

ある者は数学の天才であり、ある者は英語の天才であり、またある者は物理の天才でした。
彼らは若い先生方をも超えていたのではないかとその知識や考え方、発想の斬新さに驚嘆
したものでした。

当時の高知空港はのんびりしたもので、今では考えられませんが滑走路の南側にゲートがあり

飛行機が飛ばない時間帯には旗を持ったオンチャンがゲートを開けてくれて滑走路を横切って
学校へ通ったものでした。

空港の建物も小さくて公園にあるようなベンチを置いていて時々飛行機を見る為にこの待合室
に友達と座ったものでした。 

段々に施設も整っていき卒業するころには各専門棟、管理棟ができ実験施設も整っていたよう
に思います。

先日母校に立ち寄った時に一番に驚いたことは図書館、第二体育館、専攻科棟など当時と比較
してその施設の充実ぶりです。 

もう十年ほど前でしょうか、藤原先生から「学生に私の経験したことを話して下さい。」と
要請があり当時の学校生活のこと、私の事業内容、事業を運営していく上での苦悩など話を
しました。最後に学生に基本をきちっと勉強すること、語学を身に着けること、音楽特に一つ
ぐらい楽器が弾けることを私の経験からアドバイスしました。 

今私は電気工事業界、管工事業界で必須である一級管工事、電気工事施工管理技士国家資格
取得の為の講師をしています。

これも工学の基礎を高専時代に徹底的に学んだからこそだと思っています。

時代とともに技術はどんどん進化していきます。この流れについていくのも基礎がしっかり
していないとできません。この歳になって何事も土台すなわち基礎がしっかりしていないと
ダメだとわかってきました。

高専時代には、宿題の基礎問題を解くのが嫌だったのにそのことが一番の基礎固めであった
ということです。 

最近新聞紙上に高知高専の記事が頻繁に出ています。

マイクロバブルの研究、高専ロボットコンテストなど誠に素晴らしいことで
「さすが我が母校 good job!」と誇らしく思います。 

これから高専が60年、70年と存続していく為には時代の変化に対応していかなくては
なりません。カリキュラムの見直し、学科の変化、教授法の進化、先生方と卒業生の連携強化、
何より卒業生同志の絆を大切にすることなど今後様々なことがあると思います。

私も微力ながら母校の発展に力になればと思っています。